"好きだけじゃあ、結婚できない"
散々聞いてきたこの言葉の意味を、真に理解などしていなかった。
想像以上に、結婚して"暮らす"ことは私にとって易からぬことだったのだ。
忘れられた約束
いつからか、隣に彼がいると眠れなくなった。
あんなに眠れなかった私が安心して寝落ちするほどだったのに、今ではうとうとしては目が覚めて…の繰り返しだ。彼が寝返りをうつたび、起きてしまう。
ため息をついて、ベッドを出た。
キッチンに向かうと、流しに置きっ放しの食器…。洗い物は彼がする約束だったけれど、早々にその約束は忘れ去られた。
そぉっと蛇口をひねって、皿を洗う。大した家事じゃあない。だからこそ、余計に「なぜこれくらいのことができないのか」と思ってしまう自分がいる。
この同棲を始める前に、実家暮らしの彼と家事分担についてはすでに話し合った。
今の彼の家事能力では、結婚して一緒にくらしても私が家事を全てやることになる。仕事をしながら2人分、子どもが生まれてからはそれ以上の量の家事なんて、私にはとてもこなせない。だから、少しずつ家事をやって覚えていくか、1年一人暮らしをしてほしい。
そういう話をした。
結果、彼は自ら家事をすると言ったのだ。
生活能力と言っても、私が家事できない状況になったとき、問題なく生活を保てる程度でいいのだ。それくらいの家事が、彼に出来さえすれば、結婚して子どもができてもなんとかなると思える。
現状はそこから程遠い。
彼が家事をする、なんてこと諦めたほうが楽だ。はじめから何も期待しなければ、家事をしなくてもがっかりすることすらない。家事の一切は私が行い、彼には家事の面で全く期待しなければいい。
…でも、それなら、一緒に暮らす意味なんてあるのだろうか。
濡れた手を眺めながら、どうしようもない虚無感に包まれていた。
それからも眠れなくて、Twitterを眺めたり本を読んだりしているうちに部屋に朝日が差してきた。どうして徹夜したときの朝の光は、こんなに痛いのだろう。
(ああ、なんかもう……)
その続きは考えてはいけない。つらいとき、いつも簡単に " 終わり " の選択肢が浮かんでくる。もう全部、人生丸ごと終わってしまいたい、と。 " 終わり " は、私にとって甘い誘惑だ。
寝不足でくらくらする頭に、自分でごつっとげんこつを一発入れる。
この程度のつらさが何だと言うのか。家があって雨風がしのげて、食べるものもある。楽しいことだって、それなりにある。まだ生きていられる。甘えるな。
朝ごはんをつくらなきゃ。
それなのに、朝日に突き刺されて、私の体はソファに倒れ伏してばかりだった。
「あれ、いつの間にそっちで寝てたん」
遠くで彼の声が聞こえる。起きてごはん作らなきゃ。でも、まぶたが接着剤でも塗られたみたいに全然開かない。
彼が私の顔を覗き込む気配がした。
「どした。しんどい?」
「んー……。動かれへん…」
「そか…ごはんどうする?つくろか?」
彼に応える前に落ちていく意識のなかで、珍しいと思った。急にやる気になってどうしたんだろう?
まあ、そうは言っても買いに行くことにするのだろう、とも思った。家事が全くできないのに、いきなり料理はハードルが高すぎる。
それでもいい。彼が自分の朝食だけ買ってきてもいい。彼のなかに、『自分のことは自分でする』という意識が生まれてくれてさえすれば、それで…。
彼が離れていく気配に、私はそんな期待をしてしまっていた。期待の無意味さを、数時間前に考えたばかりだというのに。
傷つけてしまいそうで
うだるような暑さで目が覚めた。
もうずいぶん日が高い。そのせいか、私の寝転ぶソファは照射ライトにさらされているかように白んで見えた。
傍らのローテーブルに目を遣る。先ほどと寸分の違いもない、がらんとした空間があるだけだ。
まさか、片付けまでしたの?え、すごいやん。マジでやればできる子!
感動で自分の目がきらきらするのがわかる。はやく彼にこの感動を伝えたい。
体を起こしてあたりを見回すと、寝室のほうから微かに音が聞こえてきた。彼がいつもやっているゲームの音…。
崖に突き落とされるような気分、とはまさにこのことだと思った。
彼は食事を作ってもいないし、買ってもいない。自分のぶんすら、だ。
もはや彼の姿を確かめに行くのも嫌だった。これ以上落胆したくない。
私はソファから起きて、キッチンに立つ。フライパンを火にかけ、パンをトースターに放り込み、冷蔵庫からたまごを3つ取り出してボウルに割った。こんなときでもふたり分つくってしまってることにも、もう何も思わないようにした。私は自動食事製造機。
5分と経たず、たまごサンドがふたり分出来上がる。
皿にわけていると、音とにおいにつられたらしい彼が寝室から出てきた。
「おはよー、よう寝とったなあ。なんか手伝うことある?」
その無邪気さが、今は能天気にすら見えて、どうしようもなく腹が立った。
しんどかったのに「よう寝とった」ってなに?
「手伝う」ってそんな気ないのに何言ってんの?
自分の面倒も見れないならずっと実家で暮らせば?
私、いつからあなたの親になったのかしら
そんな言葉が、今にも口をついて出そうになった。
いけない、無心無心。私は自動食事製造機。
「別にない。今つくり終わったから。」
「そか…なんかごめん」
無心になろうとしても、ささくれだった私の心は、こんなときだけ言わずとも彼に伝わるらしい。それがまた憎らしかった。
私が自分のぶんの皿を持ってテーブルにつくと、彼ももうひとつのほうを持ってやってきた。当然のように私の横に腰をおろし(とは言え座るところなんて隣くらいしかないのだから、当然と言えば当然だけれど)、「いただきまーす」と言って口いっぱいに頬張る。皿のそと、テーブルにパンくずやマヨネーズが落ちるのを、見て見ぬふりをした。
早々に食べ終わり、こちらの様子をちらちら伺っている彼を無視して、私はいつも以上に小さな一口で食べ進める。死んだような表情をしているのが、自分でもわかる。沈黙に耐えられなくなった彼が、またゲームを始めた。
(こういうときに、ちゃんと言わへんからやろな……)
不満があるなら、その場ではっきり相手に伝えるべき。
わかってる。そんなこと、わかっているのだ。
でも、いざこういう場面になると言えない。傷つけてしまいそうで。
私はどうも、怒ると相手をひどく追い詰めてしまうところがある。叩きのめすほど、取返しがつかないほどに…。
彼を傷つけたいわけじゃあない。けれど、こんな未熟な私が不満を伝えようものなら、傷つきやすい彼はどうなってしまうだろう。
そう思うと、怖くて言えなかった。
こういうビビりなところが、結局のところ自分の首を絞めてきたにすぎない。彼が悪いんじゃあなく、私のつけが私に返ってきただけのこと。
不満を伝えるにしても、もっと冷静なときに言わないと…。少なくとも、今は良くないタイミングだ。無心になることだけに集中しよう。
私は空を見つめながら、ひっかかるのどに無理やりパンを押し込んだ。
なんとか食べ終えても、やはり無心になるなど難しい。彼のスマホが鳴らすゲームの音に、イライラが募っていく。このままじゃあまずい。自分を制御できなくなる。
「なあ、」
「んー?」
ちらりと私を見るものの、彼の顔はこちらを向かない。
いや、だめだ。耐えろ、耐えろ。
「今日は帰って」
「え…?」
「やから、今日は実家帰って、って」
「な、なんで?俺なんかした?」
「………今は、一緒におりたない…」
何にもせーへんからイライラすんねん!とは言えなかった。今の私には、これが精一杯の言葉だった。
彼が何にもしないようにしてしまったのは、きっと私。彼を責めるなんて、お門違いだろう。
黙っている私から何も聞き出せないと悟った彼は、叱られた子どもみたいな顔で着替えて家を出ていった。
彼のいなくなった部屋は、一気に広くなったようだった。私は寝室に戻り、ベッドに倒れこむ。
心を許した相手と言え、他人と暮らすことに私がここまでストレスを感じるなど、ふたりぐらしをするまで知らなかった。自分が思っていた以上に、彼に期待しすぎていたことも、初めて知った。これからは、期待しないくらいでいいのかもしれない。
『期待しない』
そう言えば聞こえはいいけれど、私にとってそれは『諦める』と同義だ。
話し合って、協力しようと約束して、それが果たされないと「裏切られた」と感じてしまう。深く傷ついてしまう。私が求めすぎただけなのに、傷ついたのは彼のせいだと責めたくなる。
そんなことをするくらいなら、と諦めて、彼とも自分とも向き合うことから逃げているだけだ。
相手に期待しないけれど、一緒に生活できているひとは、どんなことを考えているのだろう。
一緒にいる意味なんて、考えないのだろうか。
こんなことを考えている時点で、心の奥では彼と別れたいと思っている?
…いや、そこまでは思ってない。けれど、体のなかに石でも詰められているかのようにどうしようもなく苦しい。もう自分がどうしたいのかさえ、よくわからなくなっている。
私は久しぶりにぐっすりと眠った。
彼のにおいがする、ひとりきりのベッドで。
to be continued➸