一番最初のお話はこちら
「最近仕事どう?」
「おお、ええ感じやで。この間もさあ、」
楽しそうな彼の話に相槌を打ちながら、「本当にこれでよかったのか」と思う。
駅前のスタバのテーブルでほんのり湯気を立たせているふたつのトールカップに、あの頃とは季節が変わったんだと思い知らされた。
「ふたりぐらし」から「ひとりぐらし」へ
結論から言うと、私たちは「ふたりぐらし」をやめることにした。
転職中だった彼の仕事も決まり、私の家から通うには遠くなってしまうから。
…ということにしている。
暮らして初めてわかったけれど、私が思っていたより彼は家事をやるという意識がなかったし、自分で思っていた以上に私は他人と一緒に暮らすのに耐性がなかった。
お互いに未熟だった。
改善していく努力すら、ままならないほどに。
ひとりで食事をして、ひとり分の食器を片付ける。
構ってほしいと思うこともなければ、退屈させちゃあいけないと思うこともない。何をするにも自分のタイミングだけでできる。
心の奥でほっとしている自分がいた。
もう怒らなくていい。もう我慢しなくていい。彼のことも自分のことも、嫌になることはない。ひとりの時間が戻ってくる。
寂しさがないと言えばウソにはなる。けれど、一緒に暮らすのは無理だ。少なくとも、今の私では…。
数分で片付いた食器から、水滴が落ちる。
未熟で情けない自分に泣きたくなった。いや、私に泣く資格などなかろう。全ては私の怠慢が招いたことだ。
ひとりぐらしに戻ったことで、寂しさという代償を払うことになった。それなのに、それほど苦痛とは思わないあたり、冷たい人間だと思う。
ミルクティーをいれ、ひとりソファに座る。
昔から母に言われていたことを思い出す。
「あんた、ほんと薄情で冷たいわよね」
その通りだな、と自嘲した。
好きで付き合っている彼氏でさえ、一緒にいるのは嫌なんて、なんで付き合っているのだろう。
(…ほんと、なんで付き合ってんねやろ、私たち……)
ソファに沈み込みながら、いつまでもミルクティーが飲めないでいた。
離れているほうが愛せる気がした
彼がうちを出てから、たまに仕事終わりに駅前のスタバで一杯飲むようになった。
別に約束したわけじゃあないけれど、いつのまにか気が向いたときには、という感じ。
新しい仕事を、彼は楽しんでいるようだった。
同僚や先輩とごはんに行って楽しかっただとか、仕事は難しいけど期待してもらえてるみたいだとか、そんな話をよくしてくれる。
彼にあった仕事に就けて、本当に良かった。
たった2、3時間おしゃべりするだけ。
なんて穏やかな気持ちでいられるのかしら、と自分でも驚く。
忙しそうに行き交う人々のなかで、ふたりでこうして話していると、楽しそうな彼を愛おしく思う。幸せそうでよかったと、心から思う。
彼の話に笑いながら、お気に入りのホワイトモカを飲む。
週に1回程度しか会えていないというのに、一緒に暮らしていたころより離れた今のほうが彼を愛せている気がした。
「最近よく笑うようになったね!」
「え、そう?」
「おん、嬉しいわ!」
彼の笑顔が眩しかった。さきほどまで感じていた愛おしさが、たちまち罪悪感で塗りつぶされていく。
ああごめん、ごめんなさい…。
こんなにもあなたは私を気遣ってくれるのに、私はあなたのうわべだけに触れて愛おしいなどと…。
自分の頭を殴りつけたい気分だった。
こんな程度の気持と覚悟で結婚しようと考えていたなんて。
カップを持つ手に力がこもるのを必死で隠した。
ひとりの部屋はATフィールドのなか
彼に見送られながら改札を通り、電車で3駅。
にぎやかな飲み屋街を通り抜けて、自宅に着く。鍵を開けて、真っ暗な部屋のなかへ。
「真っ暗な部屋に帰ってひとりだと寂しいよ。やっぱ『おかえり』って言ってもらえるの嬉しいし、それで結婚したようなもんよ」
今年結婚した友だちがそう言って笑っていた。
けれど、小さいころから家でもひとりで過ごすことの多かった私には、出迎えられないことに特に寂しさは感じない。これが私にはふつうなのだ。
服を脱ぎ、ハンガーにかけ、部屋着にしているパーカーを来てソファに倒れこむ。
「はあぁぁぁ………」
あたたかいお湯に身をひたしたときのように、ため息がこぼれる。
安息のため息。
私しかいない空間。
誰にも傷つけられない、誰も傷つけることのない、安息の…
ひとりぐらしのこの部屋は、私にとってのATフィールドだ。何者も不可侵であり、完全な孤独を保つもの。
(ずっと「ひとりは嫌だ」「ずっと一緒にいる家族がほしい」と思ってきたけど、そうじゃあなかったのかもしれへんな…)
ごろりと仰向けになる。手も足も投げ出して、とても他人には見せられないだらしない体勢だ。
白い天井を見上げながら、ぼんやりと彼の屈託のない笑顔を思い出す。
こんな面倒な性格をしている私に、よく付き合ってくれているなと思う。彼は私の内面を見ても投げ出さなかった。なのに、私は……。
「話してくれるまで待つよ」
「俺に出来ることがあったら何でも言ってや」
「ほんまにつらいときは、ひとりになったらあかんで」
そう言ってくれる彼は、私にはもったいないくらい良いひとだ。本当に、私にはもったいないくらい…。
それなのに、私は彼のそういう優しさがつらい。
彼に依存しそうになるし、過度な期待をしてしまいそうになる。
そんな人間にはなりたくない。
依存しだしたが最後、私が一番嫌いなタイプの弱い人間になってしまう。
私は強くいないと生きていけない人種なのだ。戦士でいなければ!
(いっそ別れたほうが…)
何度目かわからぬ考えが浮かぶ。
彼のことが嫌いになったわけではない。もしそうなら、今までのようにさっさと別れを選んでいる。それこそ、冷たく薄情と思えるほど潔く。
彼を幸せにしたいと思った気持ちも、「このひとほど私を受け入れてくれるひとはいない」と思ったのも、彼と家族になりたいと思ったのも、その気持ちの全てが本当だ。
本当だけれど、私にはその思いを叶えるだけの適性も覚悟も足りていない。
いや…彼や自分自身と向き合うより、傷つけたくなくて、傷つきたくなくて逃げてしまいたいだけだ。ひとりでいれば、それらを恐れることもないから。
所詮私は、真にひとを愛するなんてできない人間なのかもしれない。
スマホを取って、彼にLINEを送る。
なあ、私とおっても一生結婚せえへんかもしれへんで
…これが別れになるかもしれない。
でも、それが彼の選択ならそれを受け入れたい。
失ってもかまわない程度の愛か、と言われれば正直うまく言い返せないけれど。
彼に選択させるのは、ずるいことかもしれない。また私は、彼の優しさにつけこんでいるのだろうか。
ぴこ、と通知音が鳴る。
俺はそれでええよ。結婚がしたいわけやなくて、一緒におりたいんやから
私は深いため息を吐きながら、スマホを放って目を覆う。
いっそ「最低!このクソ女!」とののしってくれたほうがマシだった。
この100点回答がつらい、だなんて贅沢で傲慢だ。
家事が多少できないことや日常の小さな不満くらい、私のこの面倒な性格を受け入れてくれるだけで補って余りあるのに…。
なのに、私は逃げ出したいと思ってしまっている。
「なんで、付き合ってんのやろ……」
ひとりの部屋に、私の言葉がすうっと溶けて消えた。
to be continued➸