私が「ひとりになりたい」と告げたとき、彼は思いっきり口をへの字に曲げた。
そういうところがかわいいけれど、同時に私の真剣さが伝わっていないんだなともわかる。
私は目を閉じて深呼吸をひとつした。
これから、とんでもなく身勝手でわがままなことを言わなくてはならない。
どんなに身勝手でも、自分の正直な気持ちを伝えて、彼からも本音を引き出すと決めたんだから。
「あのね、」
思ってることを、全部
ビジネスマンたちが酒のにおいをまとって通り過ぎていくなか、サンマルクのボックス席でぬるくなっていくカップを握りしめて私は話し始めた。
「私はさ、家庭に良い思い出がないっていうか…家族はほしいけど怖いって気持ちがあるから、結婚はしたいと思えへんねん。
それは、" あなただから " 結婚したくないっていうんじゃあなくて、結婚自体がやだって感じで….…」
「うん、…それは、今までの姿見てたり話聞いてたりでわかるよ」
彼の瞳には、たしかに労わりがあった。
この2年で、彼自身が目の当たりにした私の姿を、一つひとつ思い返すように。
「あなたとは一緒にいたいと思ってんねんで。でも…」
何て言えば、私の想いはちゃんと届くのだろう。
ショコラティーをひとくち飲んで、私はなるべくゆっくり、言葉をひとつひとつ拾い上げるように話した。
「仕事をしだすようになって、恥ずかしい話、ひとりぶんの家事すらまともにできてへんねん。
洗濯物はどんどんたまって週末しかできてないし、洗い物は夜にまとめてしかできてないし、料理なんて全然。
…こんな私の家事能力じゃあ、ふたり分なんて到底できひん。」
「…………」
「前に一緒に暮らしたときにも言ったけど、自分の身の回りのことは自分で問題なくやれるようにしてほしい。
そうやないと私、余裕をなくして、絶対あなたを傷つけるような言い方をしてしまう。それだけは、もうしたくないねん。」
ここまではっきり言ったのは初めてだった。
でももう、『好き』という気持ちを、他のもろもろが超えてしまった今、思っていることをお互いに全部言うしかない。
彼が叱られた子どものような顔で話し始めた。
「そのことは…ほんまにごめん。俺が悪かった。これからできるように、頑張っていかなあかんな」
私が彼に対してひどい口調で怒ってしまったときに、彼が決まって言う言葉だった。
今までの私の言動は、ここまで彼を押さえつけてしまっていたのか…。
思わず手で目を覆った。うすうす感じてはいたけれど、事実を突き尽きられるのはつらい。
「…ちがうやん。」
「え?」
「あなただけ悪いなんて、絶対ちがう。
たしかにあなたの家事のスキルは足りてへんと思う。けど、私だって余裕の無さを理由に、何度も何度もあなたにひどい八つ当たりをしてきた。ずっとサンドバッグにしてきてしまった。
不満がたまるたびに爆発して、ひどいことを言ってきてごめんなさい。けど、あなたにだって私に不満のひとつくらいあるやろ?
この際やから、もう全部言ってほしい」
彼はしばらく押し黙った。今までのことを振り返っているのだろうか。
カフェオレを何度か口に運んだあと、彼はぽつりぽつりと話してくれた。
「俺はさ、ほんまにお前に不満なんて…いっこもないねん。…怒って、て言われても…マジでないんや、怒ることが。
しいて言えば、…なんで頼ってくれへんねん、とは…思うけど…そういうところも含めてのお前やな、とも思うし…うん、やっぱ不満なんてないわ」
こちらを見つめる瞳があまりにもまっすぐで、私は彼から目をそらした。
これが『ひとを愛する』ということなのか?
『愛している』なら、不満なんてないのか?
じゃあ、彼の些細な欠点さえ受け入れられない私は…
「…別れよう」
「え?」
「私、ひとりになりたい」
「お前がいなきゃ生きてかれへん」とだけは言われたくなかった
あんなに支えてきてくれた彼に、思いっきりナイフを突き立ててしまったような気分だった。
それでも、そのナイフから手を離すことは許されない。これは、私が言い出したことだから。どんなにつらくても、私が最後までとどめを刺さなくては。
「私、あなたをこんなに傷つけてきたのに、今は正直…逃げてしまいたいと思ってる。」
「…俺から?」
私が頷くと、彼は深いため息を吐いた。機嫌が悪そうに眉間にしわが寄っている。
「…彼氏彼女って関係性をなくして、責任や向き合うことから逃れたいだけかもしれへん。最低やと思う。
それでも、あなたをこれ以上傷つけるくらいなら、私はひとりになりたい。」
「ええやん、別に、傷つけたって。俺はかまへん。」
私にそれ以上しゃべらせまいとするように、彼は不機嫌をあらわにして言った。
彼がここまで負の感情を表したのは、初めてかもしれない。
「実際俺が悪いんやし。お前が俺にむちゃくちゃ言って、それでお前が回復できるならそれでええやんか。なんでそんなひとりにならなあかんの」
なかば自棄になって言う彼は、今にも泣き出しそうだった。
ほんとは彼もわかっている。それじゃあダメなんだ、なんてことは。
「自分が散々傷つけてきてなんやけど、私これ以上加害者になりたくない。
怒らないように、私なりに変わろとしてきた。…でも、できひんかった。
あなたを叱るときの自分なんか、だいきらい。殺したいくらい、だいっきらい。」
鼻の奥がつんとする。
だめだ。こういうときに泣く女にだけはなりたくない。
何度かまばたきをして、私は彼の目を見据えた。
「今の私には、もう『好きやけど』の『けど…』のほうが大きくなってしまったの。」
つぷ、と彼のまぶたから、ついに雫がこぼれた。
このひとの涙だけは、もう見たくなかったのにな…。このひとを、幸せにしたいと、本当にそう思っていたのにな…。
結局、私がいちばんこのひとを傷つけてしまった。
「…なあ、俺のこときらいになってしまった?」
そう言って、彼は私の手を痛いくらい握る。私は何も言わずなすがままで、その手に触れもしない。
「きらいになるわけない。好きやから、もう傷つけたくない」なんて、死んでも言うまいと決めていた。ここでそんなことを言えば、今まで依存させてきたひとたちと同じにしてしまう。
『お前がいなきゃ生きてけない』
別れ話になる度に言われてきた言葉だった。
そう言われると、私がしていたのは『愛すること』ではなく、『依存させること』だったと思い知らされるような気がする。
『愛』と『依存』が違うのはわかる。
けれど、依存させずに愛するにはどうしたらいいのか、正直私にはわからない。
いつも相手をぐずぐずにしてしまう。
そしていつも、お互いぼろぼろになるのだ。
「俺…お前がおらんと、…もう生きてかれへんねん…!」
彼は私の手にすがりついて泣いた。
ああ、その言葉だけは言われたくなかった……。
「ごめん、ごめんなさい…」
このひととずっと一緒にいると思った。
このひとほど、私の心の嵐に付き合ってくれるひともいない。
それでも、私は向き合う覚悟ができなかった。自分で作り出した『結婚へのプレッシャー』という幻想に、私はついに勝てなかった。
弱い自分に負けて、彼の寛容さに甘えて…依存しあって傷つけるだけの関係になってしまった。
私は結局、自分のことしか愛せない人種なのかもしれない。
「なんで…きらいになったわけやないんやろ?
なあ、なんで…俺にはお前しかおらへんのに……」
「………もう帰ろう。ね?」
抜け殻のような彼の手を引いて、駅まで歩く。
私と別れても、彼はきっといつか別のひとと付き合うだろう。結婚もするかもしれない。それを想像しても、胸はちくりとも痛まなかった。
嫉妬も独占欲も、湧いてこない。幸せならそれでいい。たとえ隣にいるのが私じゃあなくても。
そして私も、また性懲りも無く誰かを好きになるのだろう。傷つけるとわかっていながら…。
彼氏彼女の関係を続けられなきゃあ、相手を大切に思う気持ちは愛ではないのか?
相手のことも自分のことも、どうしてこんなに信じられないのだろう?
大切に思っているのは本当なのに、どうしてこんなにも傷つけることしかできなかったのだろう…
閉まりかけのドアに彼を押し込んで、電車が夜の闇に飲まれていくのを見送った。
何もかも奪い去るような風が吹くホームで、私はひとり立ち尽くす。
ひとりきり…。
いつだってそうだ。孤独を代償に、ひとを傷つけながら、自由を手に入れていきてきた。
ピロン、とおもちゃのような通知音が鳴る。彼からだった。
俺はずっと待ってる。お前が俺のとこに帰ってくるのを、ずっと待ってるから。
返事は、返さなかった。